主に、
経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか - あままこのブログ
という記事へのお返事です。
今の(日本の)社会は人間を奴隷的に評価している
まずそもそも、今の世の中で生産性の云々という議題の中で取り扱われる『生産性』という意味合いは、
その人間を 奴隷として扱った場合にどれだけ利益を得られるか
と言うのと同じなんじゃないか、と私は感じているのですが、 確かにこの価値観に基くと 『経済成長』と『生産性で人間をはからない』と言う事柄は両立し得ません 。
と言うのも、この価値観に基く『生産性』とは、
いかに奴隷を酷使して利益を絞り取るか
という事に尽きる話になってしまい、当然、自分の様に精神疾患を持つ人間や、 あるいは重度の心身疾患を持つ人間は 奴隷としては役に立たない が故に、
こんなヤツらに支援するな。さっさと殺処分しろ
という、非人道的な主張に繋がるのだと私は考えています。
そして(恐らく)れいわ新選組や、それを支持する人達の、
生産性で人間をはからせない世の中 にしよう
と言うのは、
(奴隷的価値に基づく)生産性で人間をはからせない世の中 にしよう
と主張しているのだと、私は解釈しています。
経済成長と人々の尊厳
それで、先に上げた 労働力を奴隷とする価値観 に基づけば、
経済成長 = 奴隷からどれだけ利益を絞り取れたか
と言う解釈になり、それは 一部の使用者(奴隷の所有者)のみがどれだけ肥えたか 、 という指標としてしか解釈できません。
しかしながら、実際の所 現代の労働者は使用者の奴隷ではなくそれぞれが尊厳を持った存在です ので、 この 奴隷的評価は積極的に否定するの好ましく 、この前提に立った上で最初の設問である、
経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか
と言う事柄を考えると、これは、
人々の尊厳を保ったまま で 経済成長を望む社会を維持できるのか
という事柄に繋がると私は思っています。
社会(組織)の生産性は適材適所によって産まれる
また 人々の尊厳を保ったまま経済成長を行なう というのは、
如何にして 社会(組織)の効率を上げ生産性を上げるか
という話になると思うのですが、これも奴隷的評価に基づくと、
人々へ如何に過酷な労働を強いて利益を絞り上げるか
という話になってしまいまい、人間が使い潰されるだけの未来のない話 にならざるを得ません。
しかしながら、人間への奴隷的評価から脱却し 人々を使い潰さずに効率を上げる と言う前提に立ち、
如何にして 社会(組織)の効率を上げ生産性を上げるか
という命題を解くとすれば、私はこれについては、
如何にして 効率よく社会(組織)を稼動させられる役割配分をする か
と言い変えられると思っています。
つまり 人間の尊厳を保ったまま社会の効率を上げる という事柄は、 いかにして 最小の努力で最大の効率を得られる様にするか と言う話であり、 これを実現するためには 徹底した適材適所 をどこまで実現できるか、が鍵になると思っています。
奴隷的評価軸を止めよう、というムーブメント
つまるところ、 今の日本の社会は人々を奴隷的に評価し、その価値観の上で人の価値を決める 、 と言う価値観が結構幅を効かせていて、この 人々への奴隷的評価を止めよう と言うのが、 私は れいわ新選組ムーブメントの根底にある と思っていて、この、
人々への奴隷的評価を止める
という価値観に基づき、人々に適切な役割と権限、人員を割く という 適材適所 を行えば、 別に 『経済成長』と『生産性で人間の価値を決め付けない』というのは排他的価値観ではなくなる と思いますし、 逆に 奴隷的評価軸から脱却出来ない という事であれば、 この価値観は排他的である と言えるとかと思います。
また奴隷的評価軸を排し、適材適所という価値観に基づいても人への評価は存在しますが、それはあくまで、
その人をその場へ配置するのは適切かどうか
と言う類いの評価であり、不適切な配置で互いに不幸にならないための最低限必要な評価である と思うので、 それはそれで問題ないのではないかな、と私は考えています。
あと私個人としては、人間個人個人の『生産性』なんてモノは高が知れてる と思っているし、 また個人の『生産性』というモノにしても、 その人の持っている能力や技能に応じた適切な役割を得られなければ、その人の生産性の向上は見込めない と考えています。
そのため 今現在生産性が無い と言われている方々についても、その現状を生み出しているのは、 結局のところ その方々が生産性を上げられるためのコストを社会全体が支払ってない という事柄が原因であり、 その現状を差し置いて 生産性を上げるためのコストを当事者だけが支払い、なおかつそれ以上の生産性も要求する というのは、 ちょっと鬼畜なんじゃないの? と思わないでもないです。
また、中には 生まれた時から重度の障害で動けない方々 や、あるいは 意思疎通すらも困難な方 もいらっしゃりますが、 それらについては結局、 老化による認知症や傷病による後遺症などで同じ様になる のが 早いか遅いか の違いだけであり、 そう言った方々を冷遇、あるいは排除する思想 は、健常者であっても 老齢の最後の時期に自分がその様に扱われる 、 というのを果して許容するのか、という問題意識は持った方が良いと思います。
以上
というのが、最初に掲載した、
経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか - あままこのブログ
へのお返事となります。
まぁ思ったより長くなった感がありますが、とりあえず要約すると、
経済成長は「生産性で人間をはからせない世の中」と両立するのか
というのは、
(人々への)奴隷的評価軸を取り下げれば両立するし、 そうでなければ両立しない
と言う話なんじゃないか、と個人的には思います。はい。