『広告死すべし、慈悲はない』 と言われない為に

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最近、ヨッピー氏らが発端となった広告記事に PR という文字を入れるか否かの云々、 が燃焼しているのを見て、前々から個人的に思っているコトを書いてみます。

なお、この記事での前提として、この記事中での『広告』 とは、 主に Web 広告の話であり、事の発端となる記事は、ヨッピー氏の、

ぐらいしか閲覧出来ていない (僕は今現在、 Facebook のアカウントを保持していないため) 、 というコトは明記しておきます。

明らさまな『広告』 は Web の外観を損ねる

まず、僕個人の感覚としては、どんな Web サービス・Web サイトでも、いつも同じ様に、

明らさまな広告ほど、その Web の外観を損ねるモノはない

と、考えています。

そして、これは何故そう考えるか、と言うと、基本的には、

本来、その Web と関連のない広告は、その Web に取って異物である

という、僕個人の感覚に基いています。

そのため、僕自身としては、自身のブログ等に明らさまな広告等は載せたくないし、 現にこのブログなどでも、極力、広告が悪目立ちしない様に、最小限の構成だけを表示する様にしています。

そして更に言えば、僕個人の今の考えとしては、僕自身の実力で、定期的な収益が上がるのであれば、 僕は Amazon アソシエイトiTunes アフィリエイト 等の、自身の記事中に、

自分で購入したモノの画像を引っ張る為に使っている広告 を除外した、明らさまな広告の類いは、

基本的には排除したい と考えています。

もっとも、そう言う考えを僕が持っているとは言え、今現在の実力だと、 そこまで割り切って広告を排除する事が出来ていませんし、また現に今の時点では収入もほぼ無いに等しいので、 その辺りの徹底は出来ていません、というオチは付きますけどもね。

隠された『広告』 はその Web の価値を損ねる

次に僕が思うのは、どんな Web サービス・Web サイト、あるいはブログであれ、

広告である事を隠した 広告

の類いは、その Web の価値を毀損する、と考えています。

と言うのも、 広告をである事を隠した広告 は、その本質として、

その隠された広告 を閲覧した人を _ これは広告ではないですよ__ 騙している_

という 事実は変らない ですし、また、その様な行為を無意識下で行なっているメディアは、 信頼や信用を得られなくて当然である、と僕は思います。

そして、その様な 相手に対して不誠実を行なうメディア は、そのメディア媒体への健全性、 という文脈においては、排除されてしかるべきですし、また、そういう行為を野放しにした結果、 iOS などにおいて、広告ブロックアプリが繁盛するという事態にも繋がっている、と僕は思います。

記事に PR と入れたく無い、と言うのは、単に甘えではないか

最後に、僕自身としては、

広告記事に PR と入れるか否か

と言う問題については、そもそもそれ自体に拘るのは、ナンセンスというか、 瑣末な問題だと思っていて、事の本質的な問題としては、

広告記事である事を如何にして明確 にし、その前提でなお、 他者の興味を引かれる記事にする

と言うのが、本来、解決すべき問題というか課題であり、それを、

広告記事に PR と入れるか否か

と言う問題である、と言い変えてしまうのは、ちょっと違うのではないかな、と考えています。 また、僕がその前提において思うのは、

広告記事に PR と入れると PV や UU が下がる。故に PR と入れたくない

と言う様な考え方は、ある種の甘えというか、それは単に、

自分は PR という言葉を含まずに、 _広告記事である事を明記するタイトル _付けられません

と言う、

自分には、的確なタイトルを付ける実力が有りません

と、白状している様なモノなのではないか、と僕は思います。

以上

僕自身としては、ヨッピー氏が関わる記事については、たまにはてなブックマーク経由で流れ着くのを見たりして、

あーこの記事、面白いなー

と思うぐらいな感じで、特にこれと言った縁は薄いのですが、 僕が今回の記事の最初にリンクを掲載したヨッピー氏の記事の内容については、

うーん、何が言いたいんだろう

と、今一つ、その主張の中身が良く理解出来ませんでした。

そして、その 何かよう判らんな 、という感じを引き摺ったまま、 他の方がこの問題について書かれた記事の幾つかを見聞きした結果、

うーん、 PR と付ける付けない云々は 本質と関係なくね

と感じたので、今回、こう言った記事を書いてみました。

ま、僕としては、 PR と付けないとに広告記事と明確に出来ない 、と言う様な考え方は、 書き手としては、 タイトルを付ける実力の無さ を告白している様なモノ、と捉えてますし、 また、読み手としては、 自分は PR を付いてないと、広告記事を見分ける事が出来ません 、 と言う、読み手としての読解力の無さを告白している様なモノである、と、思っているので、 読み手側の問題にしろ、書き手側の問題にしろ、

広告記事には PR と付けるべきだ云々

みたいな事に拘るのは、まあ悪手と言うか、本質からズレちゃってるよなーと思う次第です。はい。

にゃるら(カラクリスタ)

『輝かしい青春』なんて失かった人。
次に備えて待機中。

今は趣味でプログラミングをして
生活しています。