最近、東京都知事選挙に関連して、 表現規制問題についての意見を目にする事が個人的にはなんか増えてるよなーと感じるんですが、 その中の意見の一つとして、
表現の自由は大切だが、だからと言って『目を背けたくなるような表現』を野放しにするのは如何がなモノか
という感じの意見を目にする機会がありました。
それで、つい先程までその意見について自分なりに考えていたのですが、その思考の中で気づいた事や、あるいはこれは見落されているのではないか、 と言う事柄などが自分なりにまとまって来たので、今日はその辺りを整理する意味でも今回の記事を書きたいと思います。
1. 『目を背けたくなる様な表現』は『現実の醜さの写し鏡』である
まず、そもそも、大抵、こう言う表現規制問題的な文脈で言われる、
「目を背けたくなる様な表現」
とはどのような物か、と考えていて、色々と思い付くままに書いてみると、これは例えば:
- 性的表現では
- 小児性愛的なモノ(要するにロリ)
- 不倫や強姦などの反社会的なモノ(NTRとかその辺り)
- 暴力表現
- 流血表現や、殺人の表現
- 暴行、虐待、拷問などの非人道的行為
- 反人道的表現
- 特定の宗教や宗派への冒涜、禁忌を使った表現
- 特定の出自などに基く、差別的、あるいは、増悪的な表現
というのが、まあ割とメジャーに問題になると思います。
それで、
これらの表現について、一定の線引きをした方が良いのでは?
という意見を、政治家であったり、あるいは市井の人々であったり、若しくは表現を生業にしている人々からであっても、 この様な意見が出て来たりして、僕としても、
まあ、感覚としては、判らないでもないけど……
と思ったりします。
しかしこれらの、
『目を背けたくなる様な表現』は、何故『目を背けたくなる』のか?
という根底的な所について皆に考えて欲しいのですが、この、
『目を背けたくなる様な表現』は、何故『目を背けたくなる』のか?という問い
について、自分なりに考えた結果、僕としては、これは、
『目を背けさせる様な表現』が忌避される理由は、 『人間の醜さ』や『現実の残酷さ』を『直視させる』からではないか
と言う結論になりました。
つまり、人々が口にする、
『目を背けたくなる様な表現』
とは、
残酷な事実や人間の非道さを写し暴く、『現実の写し鏡』
であり、その人の罪や業の直視し難さから、それらの表現を忌避したり、 あるいは『目を背けたく』なるのでは、と僕は思います。
2. 『目を背けたくなる表現』から背を向けることは、『醜い現実』から背を向けることである
先の文章では、
『目を背けたくなる様な表現』は、何故『目を背けたくなる』のか
について考え、それが、
それが 『現実の非道さ』や『人間の醜さ』を写し暴く『鏡』であるが故である
と、書きました。
そして、その、
『目を背けたくなる表現』が、『現実の醜さ写し暴く鏡』である
のならば、その写し出された現実の醜さを反映した表現を、
法規制などで『一定の線引き=表現することを禁じて』しまっても良いのか?
と、考える必要が有る、と僕は思います。
これについては各々の考え方や、あるいは政治的信条、もしくは、宗教的・文化的な価値観に基き、 それを判断すべき事柄だ、と僕は考えています。
しかしながら、僕としては、その、
『鏡に写しだされた「現実」の「醜さ」』を理由に、 その『鏡に写し出すコト=表現すること』を禁じてしまう
のは、現実の醜さや、人間の非道さ、あるいは、罪や欲望といった、人間が向き合わねばならない事柄から『目を背け』、 それを見なかった事にする或る種の逃避行動であり、『現実の問題』からの『逃げ』である、と僕は考えています。
3. その『目を背けたくなる様な表現』は、本当に『線引き=規制』してしまっても良いのか
自分としては、この手の表現規制問題については昔から反対な立場なのですが、 今回、自分で思考するうちに気付き、そして書き上げた事柄については、 あまり深く考えた事がなかった、というのが正直なところです。
と言うか、僕の場合、昔からどうも抑圧的な方向に思考が流れる指向性が有り、 表現規制問題もその手の人民へや政敵への抑圧や弾圧に使われるのではないか、 というのが、率直な反対理由でした。
しかしながら、今回考えた様に、
『目を背けたくなる様な表現』が『現実や人間の負の側面の写し鏡』
であると言う風に考えると、これを安易に禁じたり、あるいは流通を規制したりする事は、 その問題となっている事柄から目を背け、却って現実の問題からの逃げを肯定することとなり、 最終的には、社会問題や人間が引き起す負の連鎖などへの対策を妨げる、 人間社会全体の大きな障害物となり得るのではないか、と僕は思います。
また、この手の表現規制問題で良く言われる、
青少年への悪影響が云々
という意見については、確かに、精神の発達度合いや物事への分別が付いてない状態で、 それらの情報に容易に触れたり、あるいは興味半分で手を出したりすると、 青少年が痛手を受け傷ついたり、場合によっては心理的なトラウマになったりする事も有り得る、 というのは、理屈としては分からないでもない、と僕でさえ思います。
しかしながら、だからと言ってそうした情報から物事の分別が付く。その分別を付けられるようになっていく。 という発達の段階で、青少年にそれらの情報を十把一絡げに触れさせない、と言うのは、 特定の事柄への無知を広げさせたり、特定の事柄について未熟な判断に基く誤った知識を却って広げかねない、 という側面も有るのではないか、と思いますし、またそういった、
『青少年に有害となり得るかもしれない情報』
について、全く触れさせないという無菌状態での教育は、 その様な情報に触れた時の対応を誤らせ、却って話がこじれてしまったり、 また非道い被害に有ったりしかねない、と僕は考えているので、 そういった、有害性を含む情報の取り扱いや、それらの情報の見分け方、 あるいは、それらの情報への向き合い方を教える、と言う事が、真に青少年の為になる教育なのではないか、と僕は思います。
以上
なんか久しぶりにこの手の長い記事を書きました。
なんというか、この手の長文を最近まったく書いてなかったので、なんか色々と書くのに時間食ったりはしましたが、 とりあえず今回の僕の考えや、あるいは、これを読んだ方々に考えて欲しいな、と思う事柄は、そこそこ書けた様に思います。
という事で、今回の記事は以上です。
何かの参考や、あるいは物事を考える切っ掛けになれば幸いです。