『ヘイトスピーチ法規制』は、何故『反ヘイト』な者の中にも反対する者が居るのか

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というコトについて、昨日寝る前に考えていた所、ある一定の結論が出たので、その辺り今日まとめておきます。


1. 『[ヘイトスピーチ [[法規制]] 』は、何をどう取り繕うとも、『 [[特定の思想]] ・ [[言論]] ・ [[表現]] 』への [[弾圧]] である]

まず、僕がこの手の問題で思うコトは、『 [[ヘイトスピーチ法規制]] 』を成す、という志が有るのであれば、

『ヘイトスピーチ法規制』とは、『ヘイト』という形態の『思想・言論・表現』への『 [[言論弾圧]] 』を行なうとするコトである

というコトからは、 何をどう取り繕うとも、目を背けてはならない 、と思ってます。

それで、それは何故か、っていうと、一見、そういう法規制は、

『ヘイトスピーチ』への規制なんでしょ? 何が問題有るの?

という印象を大多数の方が受けるかと思うんですが、コトはそう単純ではなく、

  • 何を以ってその発言をヘイトスピーチと見做すのか
  • 何を以って『(憎悪的な)批判』と『ヘイトスピーチ』の境目を定めるのか
  • 何を以って法から恣意的な運用と市井の人々への抑圧的な運用を抑止するか

等の点を考慮する必要が有り、これらを怠ると、

『ヘイトスピーチ』を規制するはずが、権力の都合の悪い言論への弾圧に使われているでござる

みたいなコトになりかねない、と僕は考えています。

また、この手の規制論は、『ヘイトスピーチ』という言葉に惑わされ易いので気をつける必要が有ると僕は思うのですが、仮に『ヘイトスピーチ』の人間社会への害悪性に異論がまったく無いとしても、 『ヘイトスピーチ』そのものがある種の『思想・言論・表現』である 以上、それへの法規制はその ある種の『思想・言論・表現』への規制に他ならずその規制対象の定め方、あるいは、その規制運用からの恣意性の排除等の議論を怠れば 、あっという間に 市井の人々を抑圧するための法規制に化けかねない 、という問題は常に有り、それ故に、『反ヘイト』な立場を取っているにも関わらず、『ヘイトスピーチ法規制』には反対する、という方々はいらっしゃるのではないか、と僕は考えています。

で、次。

2. 『ヘイトスピーチ法規制』は万人に開かれる。それは善良なる人々にも、それは悪辣なる人々にも

先の節で

『ヘイトスピーチ法規制』は、それに類する『思想・言論・表現』に対する言論弾圧であり、また、それを定める際には、細心の注意を払わなければ、あっと言う間に市井の人々を抑圧するための手段になる

と言いましたが、もう一つ、『ヘイトスピーチ法規制』において重要な点は、それが『法規制』で有る限り、善良なる人々へも、悪辣なる人々へも、分け隔てなく開かれる、という点です。

この辺り、 [[反差別界隈]] で皆が明確に意識しているのかはちょっと怪しいな、と感じるのですが、『ヘイトスピーチ』と聴くと、なんか聴いただけ恐ろしいとか、あるいは [[危険思想]] 的に感じる印象が僕は有るのですが、これを日本語として定義しなおすと、 Wikipedia から引用しますが、

ヘイトスピーチ - Wikipedia ヘイトスピーチ(英: hate speech)とは、人種、宗教、性的指向、性別、思想、職業、障害などの要素に起因する憎悪(ヘイト)を表す表現行為とされる。 日本語では「憎悪表現」「憎悪宣伝」「差別的表現」「差別表現」「差別言論」「差別煽動」、「差別煽動表現」 などと訳される。

と有るように、

『ヘイトスピーチ』とは『差別心』に基く『思想・言論・表現』一般である

と、定義するコトが出来る、と僕は考えています。

それで、一言に『差別心』とは言っても、それが『無知』や『誤解』に基くモノである場合や、あるいは個人的な嫌悪、あるいは嫌悪体験などから導かれるモノまで様々である、と僕は思いますが、もし仮に『ヘイトスピーチ法規制』に、『無知』や『誤解』に基く、『軽微』な差別的な失言まで規制対象として含めてしまうと、それはそれで問題が起きる、と僕は考えています。

と言うのも、『明確な意図』を持って『差別的な発言』をしているなら、それはもう明確な『ヘイトスピーチ』として捉えて問題が無い、とは僕も思うのですが、先に述べた通り、『無知』や『誤解』を含む、『軽微』な差別心を含む『失言』まで『ヘイトスピーチ』として含めてしまうと、『ヘイトスピーチ』の概念が無限に広がりかねないですし、また、『ヘイトスピーチ』の概念が広がれば広がるほど、権力が自分達への批判を『ヘイトスピーチ』である、と定義して反対派閥の口封じを行なったり、あるいは、『 [[ネットイナゴ]] 』的な、他人を貶めて自身の正義心を満そうとする連中に、過度の実力行使を可能にしてしまったり、と、様々な弊害が有る、と僕は考えています。

また、先の Wikipedia からの引用で、

ヘイトスピーチ(英: hate speech)とは、人種、宗教、性的指向、性別、 思想職業 、障害などの要素に起因する憎悪(ヘイト)を表す表現行為とされる

と言う部分も引用していましたが、『ヘイトスピーチ』とは、別に 『自身が選択出来ない因子に基く差別的言論』だけが、『ヘイトスピーチ』とされるモノではなく『自身の選択の結果によるモノ』に対しても『ヘイトスピーチ』に該当し得ます

これはつまり、例えば、児童ポルノ禁止法の改正時に聴かれた様な、

ロリコンオタクは性犯罪者予備軍だ!

みたいな発言も、 『偏見』や『無知』に基く、自己が選択した『性的指向』への『ヘイトスピーチ』 だと僕は思いますし、また、ゲームに対する規制論でも、

○○ というゲームは、○○ への暴力を肯定している! 当然、それを作ってる連中や消費している連中も暴力を肯定する危険思想保有者だ!

という類の発言も、まあ 『偏見』や『誤解』に基く、特定の種類のゲームを制作する『職業』 や、あるいは、 それを消費する『思想 (趣味、嗜好)』への『ヘイトスピーチ』である 、と言えるワケです。

そして、『ヘイトスピーチ法規制』から恣意性を排除し、『ヘイトスピーチ法規制』が『ヘイトスピーチ』を正しく取り締るコトを目的とするのであれば、当然、これらの、

  • 『自己選択 不可能 な事柄』に対する『ヘイトスピーチ』
  • 『自己選択 可能 な事柄』に対する『ヘイトスピーチ』

の両者を取り締まる必要が有る、と僕は思うし、もし後者の、

  • 『自己選択 可能 な事柄』に対する『ヘイトスピーチ』

を取り締まり対象から外す、みたいなコトは、不公平だろうと僕は思います。

で、最後。

3. それでは、我々はどのように『ヘイトスピーチ』を取り締まるべきなのか

これについては、各々の考え方や、あるいは思想に依っても違うと思いますが、僕個人としては、

一定の継続 』が見られ、かつ『 差別への扇動 』 が含まれる『現実へのヘイトスピーチ』は法規制の刑事罰則対象とし、それ以外の 軽微な差別心の発露 については刑事罰ではなく厳重注意に留め、その指導の結果でも態度が改まらない場合には、刑事罰の対象とする。

と言うのが妥当かなぁ、と今は考えています。

また、『ヘイトスピーチ法規制』が行なわれる際には、

十二分な法の乱用への抑止力を盛り込み、特に権力側の乱用を事実上不可能にしておく

という事が重要ではないか、と思ってます。

まあポイントをまとめるとするならば、

  1. 一定の継続 』と『 差別への扇動 』が含まれる『 現実 』への『思想・言論・表現』を取り締まり対象とする
  2. 軽微な差別心の発露 については、 厳重注意に留めその態度が上記へ深化した場合にのみ 取り締まり対象とする
  3. また、 法乱用への抑止力を十二分に盛り込み付帯決議 や、 法案の規制対象の限定 等で、 法の乱用を事実上不可能にしておく

という三点を盛り込みさえすれば、まあ、『ヘイトスピーチ法規制』を行なったとしても、 重大かつ危篤な言論統制に繋がらないのではないか、と僕は思ってます。

それで、僕は『ヘイトスピーチ法規制』については、 頭ごなしに否定している立場 ではない んですが、ぶっちゃけ 現実社会への副作用や悪影響への考えなし に、

『ヘイトスピーチ』を法規制しろ!

と、主張する事へはとてもじゃないですが 賛同できません

というのも、今回のエントリで書いた様に、いくら 『ヘイトスピーチ』が有害な『思想・言論・表現』である とは言え、それでも それが或る種の『思想・言論・表現』である以上 、それを規制するとなると、それは その『思想・言論・表現』への言論弾圧に他ならない 、と僕は考えているし、それを 意識せず に、あるいは、 意識した上で無視してざっくばらんに『思想・言論・表現』法規制を盛り込む 、というのは、その法案が出来た当初は良いかもしれませんが、それが 国民や国の住民に対して抑圧を目論む極端な政権が樹立した場合その『反ヘイトピーチ法案』が、政敵への言論弾圧の道具に使われない保証なんてどこにも無い 、と僕は考えています。

以上

というコトで、『ヘイトスピーチ法規制』について、昨日夜寝る前に考えていたコトは大体以上です。

まー基本的に、 僕は人間の理性なんぞ信用も信頼もしていない ので、こういう最後の節の様な結論にならざるを得ないのですが、特に、 民主主義の根幹を成す『思想・言論・表現』に対する規制 に対しては、相当に、 その法案の運用を抑止的に運用しなければ 、途端にその法案は 言論弾圧法に化ける 、と個人的には考えています。

それで、これは僕の推測でしかないんですが、『反ヘイト』な立場の方々の中に、何故『ヘイトスピーチ法規制』に反対する方々がいらっしゃるのか、というのは、正に今日書いた事柄が関係しているのではないか、と僕は考えていて、まあはっきり言えば、

『反ヘイトスピーチ』の名を借りた、市井の人々への『言論弾圧法』の成立へ警戒、忌避感

が、『反ヘイト』でも『ヘイトスピーチ規制』はちょっと……と考える方々がいらっしゃるのではないか、と僕は多います。

それで、この辺り、反ヘイト界隈でちゃんと意識というか議論が進んでるのかちょっと判らないんですが、少なくとも、自身の行為に無批判に『反ヘイト過激派』みたくなっちゃってる方々には多分、この手の視点は無いだろうし、また、『反ヘイト活動』を

『表現の自由』との闘い

と表現しちゃってる方々については、まあ、それについて、僕は、

え、それって、 民主主義の根幹である「『思想・言論・表現』の自由」をお飾りにして破壊しましょう ってコト?

なんて思ってしまいますね。はい。

ま、その辺り、ちゃんと主張なりを聴いてないので、なんとも断言はし難い感じではあるんですが、単純に、表面的にそのフレーズを聴いただけでは、まあそんな感じの印象は受けましたって話ですね。はい。


というコトで昼前ぐらいから二時間ぐらいかけて、書いた記事は以上です。なんか指摘等有りましたらコメント欄などでお知らせください。

以上、終わります。はい。

にゃるら(カラクリスタ)

『輝かしい青春』なんて失かった人。
次に備えて待機中。

今は趣味でプログラミングをして
生活しています。