怒りを捨てる方法

始めに

私は2020年1月現在、物事に対して不快感を示すことや、 その時々の体調に起因するイライラ感は有るにしろ、 他の誰かに対してほぼ怒ることが無くなりました。

とは言え私自身、昔からそう言うことが出来ていたかと言うとこれが全く逆で、 幼い頃は癇癪を持て余して物に当たり散らすことが良く有ったし、 ささいな不満で感情を爆発させる事も少なからずあり、昔の私を良く知る方からしてみれば、

なんでそんなに穏かになれたんだ?

と思う方もおられるのではないか、と自分でも思うぐらいには癇癪持ちな人間でした。

しかし今から5年ほど前、ある事に対し怒りを持って反応してしまったところ、 思いのほか自分自身にダメージを受け、精神面で色々と生活に支障も出たため、 それ以来、

もう他の何かに対して怒るのは止めよう

と思う様になりました。

そして『怒るの止めよう』と決意してから、意図的に怒らない様にしていた結果、 現在では相当に性格が穏かになり、怒ってしまうことをほぼ撲滅するに至ったので、 今回はその辺りの方法論や考え方や、 『怒り』と言う感情を捨てた際のメリット・デメリットを書きたいと思います。

そもそも私たちはなぜ物事に対して『怒り』を持ってしまうのか

私は学者でもなんでも無いので、生き物として人間が『怒り』を抱く理由などは分かりませんが、 具体例として世間一般で『怒られ』が発生するのは、次の様な場合が考えられます:

  • 子供たちが言われても宿題などをしない
  • パートナーとささいな行き違いから分かり合えずに喧嘩となる
  • 仕事などで部下や同僚への注意が有っても行動を改めない

もっともこれは分かり易い例として思いつくままに上げた例なので、 他にも怒られるケースなどは多々あると思いますが、 実は『怒られ』や『怒り』が発生するとき、そこには必ず隠れた共通点があります。

まず、具体的に考えて行くと、

子供たちが言われても宿題や手伝いなどをしない

と言うのは、例えばお子さんがいる家庭などで、 学校で宿題が出たのにそれをやらず遊んでいる、 と言うのを親が見て子供を注意しても言う事を聞かない、という場面です。

次に、

パートナーとささいな行き違いから分かり合えずに喧嘩となる

と言うのは、パートナーと言うか呼び方は恋人でもなんでも良いのですが、 この場合だと、お互いの認識の違いからちょっとした行き違いが発生し、 それが原因で喧嘩になってしまった、と言うケースです。

最後に、

仕事などで部下や同僚への注意が有っても行動を改めない

と言うのは、仕事などで部下や同僚に注意を促したにもかかわらず、 同じ様なミスをしたり、あるいは聞いているのか聞いていないのか良く分からない行動を取られた、 と言う場面です。

そしてここまでの具体例では、実は隠れた共通点があるのですが、 実際にこれらのケースでの共通点を見つけろと言わても、

これらの共通点って言う事を聴いてくれなかったり、 あるいは自分の言っている事を理解してくれてないだけじゃないの?

と思うかもしれません。

無論、それらの感想や考えは決して間違いでも無いんですが、 良く良く考えてみると、私たちは何故、(誰かに)言う事を聴いてくれなかったり、 言うことを理解されてないと『怒る』のでしょうか?

また、誰かに言う事を聴いてもらったり、あるいは理解してもらう上で、 私たちは誰かに、一体、何をして欲しいと思うのでしょうか。 もしくは誰か何かをして欲しいとき、私たちは何を望んでいるのでしょうか?

……と言うことを問われたとしても、とっかかりが無いと、

なんのこっちゃ?

と思ってしまわれると私も思います。

しかしこれらの、

自分の言ったことを理解して聞き入れてもらえないと言うことに腹を立てる

と言う事柄は、実は、

自分の言った事を理解して聞き入れてもらうことを期待してたが、 実際にはそうならなかった

と言う共通点があります。

またかつての私の様に、ささいな事で癇癪を起こしたり、 あるいは自分の思う様に事が進まないことでイライラしたりする、と言うのは、 先の具体例の共通点でもありますが、

自分が期待し望んでいた通りには、上手く事が進まなかった

と言うことであり、ここに隠された共通点とは、

何かに対して成果を 『期待』 して得られる事を望んだが、 実際にはそれを 『得られなかった』

と言うことになります、

つまり先の具体例で言えば、

子供たちが言われても宿題をしない

と言う場面で怒るのは:

子供へ宿題をやると言う行動を 『期待』 したが、 実際には宿題をすると言う行動を 『得られなかった』

次に、

パートナーとささいな行き違いから分かり合えずに喧嘩となる

と言うのは:

パートナーなら自分の事を理解してくれると 『期待』 したが、 実際にはパートナーの理解を 『得られなかった』

最後の、

仕事などで部下や同僚への注意が有っても行動を改めない

と言うのは:

部下や同僚の行動が改められると言うことを 『期待』 したが、 実際には行動の改善を 『得られなかった』

と言う解釈になります。

つまり、私たちが『怒り』を覚える場面と言うのは、根本的には、

何かに『期待』し結果を得られる事を望んだ が、 現実には 期待した結果を『得られなかった』

と言うパターンにおいて発生しており、 『怒り』を捨てるために押さえるべきポイントとしては、

( 物事に対し)『期待』した結果を『得られなかった』

と言う事に対してどう対応して行くか、が鍵となります。

『怒り』を捨てる方法

さて先のセクションで『怒り』と言う感情は、

( 物事に対し)『期待』した結果を『得られなかった』こと によって発生する

と長々と解説しましたが、問題はこれをどう克服するか です。

と言うのも私が、

もう何かに対して『怒る』のを止めよう

と決意し実際には無意識下で行なっていた方法論としては、『怒り』の根本的な原因である、

『期待』した結果を『得られなかった』こと

に対して、感情面での落差を生まないため に、

何か物事に対して『期待』するのを止める

と言う意識付けを行なっていました。

つまり私は『怒り』を克服するために無意識下で、

『怒り』を捨てる ために 『期待』も捨てる

と言うことをしたと言う事になります。

そしてこれこそが 『怒り』を捨てる方法論 そのものであるのですが、 この 『怒り』を捨てるための方法論が分かっていた としても、

物事に対する『期待』を捨て、 何事に対しても期待値をゼロとして行動する

と言う事の実践は、相当に難しい と私は考えています。

また 何事にも『期待』を抱かない と言うのは裏を返せば、

誰に対しても何の『期待』も託さない

と言う態度であり、これはこれで ある意味冷たい態度ではある し、 またそれ以外にも 明確な副作用が存在します

『怒り』を捨てる際のメリット・デメリット

さて、ここまでで、

『怒り』を捨てる ためには 『期待』も捨てる 必要がある

と解説して来ました。

そして 『怒り』を捨てると言う行動には明確な副作用もある と記載しましたが、 最後のセクションではこれについて解説したいと思います。

まず 『怒り』を捨てて『期待』も捨てる と言う事に対するメリットは:

  • 『怒り』と言う感情を爆発させる事が無く なり 心穏かに過ごせる
  • 何事の結果にも 『そんなものだよね』と ありのままに受けとめられる
  • 相手に対する『期待』がないため 何事にも感謝の念が先に来る

と言った辺りでしょうか。

もっともこの辺りは仏教における悟り近しいものが有るのでは無いか、 と個人的には感じているのですが、私は完全な悟りには至ってないとも考えているので、 ここでは特に深く触れません。

次に 『怒り』を捨てて『期待』も捨てる ことに対するデメリットとしては:

  • 『期待』することが無くなる ので 情熱や野心が枯れる
  • 情熱や野心も枯れる ことで 競争意欲が失なわれる
  • 正当な『怒り』や防衛としての『怒り』も失われる

と言った辺りです。

特に、

『期待』することが無くなる ので 情熱や野心が枯れる

とはどう言うことかと言うと、人間の情熱や野心と言うのは、

現状に対して より良い結果を『期待』して行動する

と言う側面があり、『怒り』を捨て『期待』も捨てる と言うことをすると、 この 情熱や野心の根本 である 未来への『期待』 が失われる と言うことを意味します。

そのため 『怒り』を捨て『期待』も捨てる と言う人の在り方は、

現状に対し情熱や野心を抱くことなく淡々と生きる

と言う事となり、 情熱や野心を必要とする生き方をしている方 にとっては、 その根幹が失われる と言う 大きな障害が生まれる と言う面が多分にしてあると私は考えています。

また 何事にも期待しない と言う生き方は、 大きな理不尽に遭遇しない生活をしている と言う場合には問題ないですが、 正当な『怒り』や防衛としての『怒り』を必要とする大きな理不尽と対峙する場合 でも 『怒り』の感情が起きない ために かなりの支障が出る のではないか、と私個人としては感じています。

そのため

『怒り』に振り回されない生活を送りたい

と願っていたとしても、果して 本当に『怒り』と言う感情を手放してしまっても良いのか『怒り』をコントロールする他の手段は無いのか と各人が良く良く考える必要があるのではないかと私は考えています。

以上

と言うことで、ここまで怒りを捨てる方法論について解説して来ました。

ここまでの解説を書いてきた中で自分でも気がついた点なのですが、 ここまでの方法論はあくまで 『怒り』を捨てる方法 であって 『怒り』をコントロールする方法論ではありません

またここまでの方法論が 『怒り』を捨てる方法 である以上 『怒り』をコントロールするための技術 は また 別の方法論が必要ではないか と私は考えています。